ここにもよって祈ってほしい慰霊碑・記念碑

広島を訪れる人々よ

この街を歩く時にァ

どうぞ いついきしづかに

こころして歩いて行って つかァさいや・・・

のう・・・

水野潤一「しづかに歩いてつかあさい」

ここにもよって 祈ってほしい 慰霊碑・記念碑」

絵・脚本 紙芝居師なっちゃん

参考資料

「ヒロシマの声を聞こう~原爆の碑と遺跡が語るもの~」

平和記念公園は、第二次世界大戦の時、

アメリカ軍によって落とされた「原子爆弾」
いわゆる「原爆」によって亡くなった方々の慰霊と、
世界平和を祈り開設された公園です。

さて。この場所は、江戸時代から昭和初期までは
広島市の中心地・繁華街でしたが・・・

昭和20年(1945年)8月6日、

人類史上初めて落とされた、
一発の原子爆弾により、一瞬で破壊されました。

この公園のすぐ近くが爆心地であり、
その爪痕は、今も、この原爆ドームから感じる事ができるのです。

原爆慰霊碑には

「安らかに眠ってください
 過ちは 繰り返しませぬから」

と刻まれた、石のお棺があります。

ここには、原爆で亡くなられた方々の名簿が
納められ、犠牲者のご冥福を祈り、
戦争という過ちを繰り返さない、
平和を誓う、強い心を伝えています。

ここでは、沢山の観光客が、手を合わせています

平和記念公園は、原爆慰霊碑だけではなく、

沢山の「祈りの場所」、皆さんに心を寄せて欲しい

場所がたくさんあります。

是非ここで、当時から現在までの沢山の想いと、

平和の祈りを捧げて欲しいと思います。

今回ご紹介する祈りの碑や像は、こちらの8か所。

1か所ずつ、ご紹介していきましょう。


先ずは、みなさん、知ってくれていますね。

『原爆の子の像』
~子どもたちが平和をねがう~

この像は、ある女の子の死をきっかけに
建てられました。

8月6日、当時2歳だった

「佐々木禎子(ささきさだこ)」さん。

爆心地から近いところに居ましたが、
奇跡的に無事でした。

しかし、禎子さん10歳の時、「原爆症」という、
放射線の しょうがい で入院しました。

入院中、「折り鶴を千羽折ると願いが叶う」と、
退院を願い千羽鶴を折りましたが・・・

禎子さん12歳の時、白血病で
亡くなってしまうのです。

これを機に、原爆で亡くなった子どもたちの魂を慰め
平和が続くように、と・・・

平和を祈る像が建てられました。

1958年、5月5日、子どもの日。

子ども達と、禎子さんが願いを込めた折り鶴の像、

『原爆の子の像』です。

像には、こう、刻まれています。

これはぼくらの叫びです
これはわたしたちの祈りです
世界に平和をきずくための

次は、こちらです。

『原爆供養塔』
~7万人のお骨が眠る~

公園内での「本当のお墓」と言ってもいいかもしれません。

およそ7万人、と言われる、原爆で亡くなった
方々の遺骨が納められています。

あの日、一瞬で町が破壊されたヒロシマ。

炎に包まれながら、職場・学校・自宅に帰る人、
家を探す人、避難する人たちで溢れかえります、
皆が水を求めて川を渡ろうとしますが、その川で
亡くなる方も大勢いたのです。

町には、亡くなった人たちの遺体と遺骨が
散乱する状態となってしまいました。

こうした状況に・・・

終戦の翌年、宗派を越えたお坊さんたちが、
この場所に、遺骨を納める「納骨堂」をつくり、
市内各地の遺骨も合わせて供養しました。

今では、毎年8月6日に、広島県内から訪れる
多くのお坊さんたちの、追悼の祈りがささげられます。

この供養塔の前には、かつて、お寺がありました。

ここで子どもたちは学校の授業を受けていたのです。

供養塔には、このような句が刻まれています

「太き骨は 先生ならむ そのそばに
小さき頭の 骨のあつまり」

あの日、多くの子ども達までも、原爆の犠牲に
なったことは、忘れてはなりません。


続いては

『教師と子どもの碑』
~私たちの死を無駄にしないで~

子どもたちだけではありません。


先生方もあの日、子どもたちを必死に守ろうと
していました。

広島市の国民学校初等科(今の小学校)は、
上級生は『疎開(そかい)』という、
学校から場所を変えての授業、
下級生はお寺や神社などに分かれて学んでいました。

授業中に空襲警報が鳴ると、子どもたちはすぐに
家に帰れるようにしていました

しかし・・・

原爆は、小さい子どもたちにも
容赦なく牙をむきました。

犠牲者は子ども達約2000人、先生は約200人、
と言われています。

先生方は、自分たちが傷つきながらも、教え子たちを
守ろうと、子どもを抱きかかえたまま亡くなっていきました。

そんな先生たちと子どもの死を無駄にしてはならない、
と建てられのが、この「教師と教え子の碑」です、


続いては、こちら。

『嵐の中の母子の像』
~核兵器から子どもを守って~

この像は、平和記念公園の玄関口ともいえる
平和大通りの中心にあります。

この作品のモチーフは、原爆が落とされた
広島の悲惨な姿。

胸に乳飲み子を抱き、背にはもう一人、子どもを
負ぶって立ち上がろうとする母と子の姿です。

とことんまで生きようとする母子の姿を通して、
いのちの尊厳をあらわした

と、作者の彫刻家、本郷新(ほんごう しん)さんは言います。



この母子の像の後ろにあるのは、
『祈りの泉』と名付けられた大きな噴水です。

あの日、原爆により一瞬で火の海になり、
水を求めて全身を焼かれなくなっていた、
原爆犠牲者の皆さんに、豊かに水を捧げて慰霊する噴水です。

続いては…

『峠三吉の詩碑』
~原爆をくりかえさない~

(ちちをかえせ、ははをかえせ…という一文は聞いたことある!
という方もいらっしゃるのではないでしょうか)

この詩を書いたのは「峠三吉(とうげ さんきち)」です。

三吉は、28歳の時に、爆心地から
約3キロメートル先の自宅で被爆しました。

戦後、平和運動や文化運動に取り組み、
原爆禁止運動にも力を注いできました。

そんな中・・・

1950年、朝鮮戦争がはじまり、
平和運動を抑えよう、という動きがでてくるのです

憤りを感じた三吉は、病とたたかいながら、
「あの日のヒロシマ(・ナガサキ)の原爆を忘れるな」
という強い願いを込めて、

「原爆詩集」を発表します。

怒りや苦しみを隠さずに詩にした三吉は、
36歳という若さで亡くなります。

彼は、生涯をかけて、原爆や核の使用を
止めようと、この詩を遺したのです。


『ジュノー博士記念碑』
~海外からの助け~

海外からやってきた医師も、被爆者の治療にあたりました。

8月6日の原爆投下の直後、実は、
海外からやってきた、赤十字国際委員会の医師が居ました。

スイスのマルセル・ジュノー医師です。

彼の功績をたたえた記念碑があるのです。

皮肉にも、長崎県に原子爆弾が落とされた日でした。

最初は、捕虜(戦争でつかまった兵士)の調査でした。

しかし、広島の惨状を目の当たりにして、
被爆者たちの治療と、被害を調べる事に、力を尽くしました。

この碑の裏側には、ジュノー博士の言葉・・・

「無数の叫びがあなたたちの助けを求めている」

と刻まれています


『広島県立第二中学校慰霊碑』
~建物疎開の犠牲となる~


戦時末期になるとおこなわれていた「建物疎開」。

「建物疎開」とは、空襲で町中に火が広がるのを
防いで、避難する場所を確保するために、
建物をこわして、空き地を作ることです。

広島県立第二中学校の生徒たちも、8月6日、
建物疎開の為に、市内中心地に集まっていました。

作業中に原爆が落ち、生徒たち全員が亡くなりました。

しかも、爆心地に近かったので、遺骨さえも拾えない
状況でした。

のちに、この碑に生徒と職員、合わせて
352名の名が刻まれ、石には校長の言葉が刻まれました。

「なぐさめの 言葉知らねば ただ泣かむ
ながおもかげと いさとしのびて」


さて、平和記念公園には、この他にも、
8月6日の事を伝える記念碑やモニュメント、
祈りの場所がたくさんあります

8月6日当時のままの姿で
保存されている『被爆建物』も、あちこちにあります。

ちなみにこちらは、トイレです。

その他・・・「郵便は世界を結ぶ」と刻まれている
『平和記念ポスト』もあります


世界で唯一、原子爆弾によって破壊されたヒロシマは、

今、犠牲者を弔い、手を合わせ、

二度と原爆が使われず、
平和な世界がずっと続くよう、
祈りをささげる尊い場、として、

世界中に、平和へのメッセージを
送り続けているのです。

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「カミサマ紙芝居師なっちゃん」Official Site

鎌倉を拠点に、全国各地で紙芝居で笑顔と元気を届ける紙芝居師。 神代文字である『龍体文字』でカミサマのエネルギーを届ける神事アーティスト。 古事記・日本書紀などをもとに日本の八百万の神様のお話や 日本の神々が持つスピリットをオリジナル紙芝居で伝えている。 いしかわ観光特使、第2回 ニッポン全国街頭紙芝居大会優勝。

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